漫研部の皆さんと桜の木の下で 右から4番目がけらさん、左が顧問の中平枝里子先生

 

このインタビューは、けらさんの出身校である都立井草高校の同窓会会誌「井草会報№58」(2025年7月1日)に掲載されたものです。

 

OB・OGインタビュー

けら えいこさん

33回生(昭和56年卒)I組 漫画家

 

けらえいこさんは、井草高校の漫画研究会(現在の漫画研究部)出身の漫画家。代表作「あたしンち」はテレビアニメ化されるなど幅広い世代に愛されています。漫研一色の高校時代の思い出や漫画家を目指す道のり、プロとして活動する上でご自身が大切にしてきたことなどを懐かしい井草高校の教室でお話しいただきました。聞き手は漫画研究部部長の秋元優香(あきもとゆうか)さん(高2)、副部長の右田梨桜(みぎたりお )さん(高2)他の皆さんです。

 

−これまでのお仕事について教えてください

30才の時からずっと「あたしンち」ひとすじです。
今は、朝日新聞出版の週刊誌『AERA』で連載をしています。

「あたしンち」は最初、読売新聞日曜版の連載でしたが、東日本大震災のあとくらいでヘトヘトになって、いったん連載が終了になってしまいました。

自分で終わりにしたんですけど、ものすごく残念でした。

その後は7年くらいブラブラして、何をしていたかというと、ちょうどその時期、世の中が激変して、みんながスマホを持つようになったんです。
私もネットの勉強をしたり、デジタルで絵を描く練習をしていました。

「あたしンち」はもう描かないつもりだったんですけど、ネットに浸っているうちに、若い「あたしンち」ファンがたくさん生まれていることに気づいたんです。

好意的な感想が多くて、ものすごい衝撃でした。

「あたしンち」は、実は夫婦2人の共同作品なんですけど、2人で喜んで、また描こうか!という話になりました。現金です(笑)。

たまたまそのタイミングでご縁のあった朝日新聞出版さんの『AERA』で「あたしンち」を再開。

アニメは、新聞連載スタートからしばらくして始まりました。
ダンナが加わってくれたのもこの頃。

アニメ「あたしンち」が大変だったのは、ぜんぶの話を、倍ちかく伸ばさなきゃならなかったこと。

テレビ番組では8分くらいのエピソードを2本流しますが、「あたしンち」はアニメにすると1本3〜4分程度にしかならない。
2倍に伸ばすのはもの凄く大変なことです。

すべての話、ぜんぶ、何回も何回も会議してるんですよね。
出版社からも担当編集者さん、編集長さんまで出席していただき、シンエイ動画(アニメーション制作会社)のスタッフさん合わせて8〜10人くらいで、毎週、毎回、何時間も、7年以上会議を続けました。
これが想像を超える大変さでした。私は早々に降参して、オットにバトンタッチ、オットも数年しか参加できなかったくらい過酷。

おかげさまで視聴率は良かったんですけど、2009年、世の中の景気がイッキに悪くなった年、アニメ終了。

10年後の2019年、私が復活したのと同じタイミングで、シンエイ動画さんがYouTubeでアニメ配信を始めました(YouTube 【アニメ】あたしンち公式チャンネル)。

再放送をYouTubeでやるような感じです。2年くらいで登録者数が100万人を越えて、うちもシンエイ動画さんもビックリ。
本当にありがたいです。

ご恩返しじゃないですけど、去年は新作が作られました。うちも協力しました。

−井草高校時代にはどのような思い出がありますか?その頃から漫画家を目指していたのですか?

井草の思い出はやっぱり漫研。クラスでは、みんなが早弁していたことをよく思い出します(笑)。

漫研では、小学館『ちゃお』で今も連載中の「こっちむいて!みい子」のおのえりこ先生、「ハゲしいな!桜井くん」で有名になった高倉あつこ先生、が同期でした。

おの先生は在学中に『月刊マーガレット』へ作品を応募して、高校生デビューを果たしました。

すぐ担当もついて、プロとして活動していて、隣で見てて眩しかった。

それが間違いなく、私が漫画家になったきっかけです。おの先生に出会ってなかったら漫画家になってないですね。

漫研の活動も、みんなしっかり漫画を描いてたし、夏合宿で長野の山に登ったりもして、楽しかった。

高校生デビューといえば、私が1年生の時、3年生に新井素子さん(手嶋(新井)素子さん 31回生)がいらして、新井さんも「第1回奇想天外SF新人賞」に入賞して、S F作家としてプロ活動をスタートされてたんですよ。

当時はSFブームだったので、学校をあげての大騒ぎになりました。

当時の井草生で、新井さんのデビュー本を買わなかった人はいなかったんじゃないかな?

私も何かやりたい!という気持ちになったんですよ。

でも、私はその後もずっと、これといった作品が描けなくて、30才近くまでモヤモヤしてました。

それでもがんばって続けられたのは、高校時代に受けた、刺激というか、火種というか、希望というか・・。そういう感動は、一生の宝物だと思いました。

−漫画家になるために必要なものとは

当時、プロになるには、コミック誌へ応募してデビューする、というのが本道だったんです。

私も高2から10年くらい、投稿や持ち込みをしてたんですけど、まったくダメでした。

なのでそれは完全にあきらめて、「来た仕事をやる」ことに集中。

結婚して主婦になっても、依頼されたものを描くだけ。似顔絵屋さんを頼まれて、地方へ行ったりもしました。

それが良かったみたいです。

情報誌でカットを描いていたら、単行本の描き下ろしを依頼されたり(「セキララ結婚生活」)、それを見た読売新聞社さんから、「あたしンち」の連載を依頼されたりしました。

それで、マンガ家になるのに必要なものは、才能よりも「運と縁」だと思いました。

あと今振り返って思うのは「サービス精神」が大事かもしれないと。あとは「行動・持続」。

プロになって、知り合いのマンガ家さんたちを見ていると、とにかくサービス精神がすごい。

マンガに限らず、たぶんどの仕事でも、相手の喜びがなにより、と思えるマインドは大事かもしれない。

大学の時に先輩から「依頼者の期待をちょっとだけ越えていればずっと仕事をもらえるよ」と言われたんですが、そこだけ注意していたら本当に食いっぱぐれなかった。

やってみたいことはとりあえず10年やってみると、失敗しても血肉になるよ、というのも、別の先輩から教わって、ほんとだーと思ったことです。なのでここで言っときます。

校門脇の八重桜を背景に 左から漫研部副部長の右田さん、けらさん、部長の秋元さん